2016年12月14日水曜日

今日のことり

お風呂に浸かりながら、Bさんが昔の話をする。

「わたしも飲んだわよ。ポートワインとか。」

へぇ、Bさん、飲んでたんですね。

「強いんですねって言われて。それが嫌でやめたけどね。」

娘さんも、お酒強いんですか?

「あの子は強いわよ~、ノンアルコール飲むもの。」

(え)

2016年12月9日金曜日

「ぶんじ」の使い方


その姿に「パートナー」「連れ合い」という言葉が思い浮かぶ、そんなご夫婦がいる。

Hさんご夫妻もその一組。

はじめてお会いした時の印象は、男気のある寡黙なご主人と、さっぱりとした軽やかな奥様。人との距離感を大切にされていて、親しんでも慣れあうことはない、上品だけどユーモアのある、そんなイメージだった。

 

ある日のこと。

お買い物の代行に伺うと、用意してくださっていたメモの中に「ボジョレ・ヌーボー」の文字があった。

もうそんな時期なんですね、と言うと、

「毎年ふたりで飲んでいるのよ。おいしいかどうかは別だけど、こういうの好きじゃない?日本人は。」と奥さま。

今年は主人は舐める程度かもしれないけど、毎年楽しみにしているから。

おつまみのスモークサーモンは、サラダにものせられるから私も食べるし、と。

 

 

年に1度の楽しみか~、と思いながらスーパーに到着。ところが、どこを探しても「ボジョレ・ヌーボー」は見当たらない。おかしいな、チラシにも書いてあったのに、と預かったチラシをもう一度見直してみる…と、
 
「あ!」

 

ボジョレ・ヌーボーの解禁日は、翌日だった。

1日前に入っていたチラシをみて、奥様は「今日」と思ったに違いない。

どうしようかな、でもほかのワインを買っていっても意味がない。

もしかしたら、明日お出かけの際に買っていらっしゃるかもしれないから、とりあえずおつまみ用にとおっしゃっていたサーモンは買っていこう。

 

そして、会計を終えて自転車へご自宅へ向かう。

自転車を漕ぎながら頭の中で自分と会話する。

ねえ、ワインって重いよね。明日お出かけする用事があったとして、Hさんは購入されるかしら。いや、しないだろうな、したとしても重くて大変だよ。だから頼まれたんだもの。でも、訪問は明日じゃなくて今日なんだもの、どうしようもないよ、まだ解禁していなかったんだし。でも年に1度の楽しみなんだよ。来年があるって保証もないかも。でも訪問日以外に訪問することはできないよ、介護保険なんだもの。何かいい方法はないかな、お互いにとっていい方法。

 

そこでピン!ときた。いい「道具」がある。

 

 

チャイムを鳴らして入室。買ってきたものを袋から取り出して、確認していただく。

そして、Hさんに告げる。

「ボジョレは…解禁日は明日でした。まだ売っていなかったんです。」

Hさんは「あら、チラシをみたから勘違いしちゃったわ」と笑う。別にどうってことないんだけど、そう、残念だわね。ちらっと寝室のご主人を見る。

 

Hさんの言葉が終わるのを待って、やっぱり提案してみようと心を決める。

「それでね、Hさん。もしよかったら、これ使ってみませんか?」

それは、Hさんから本をお借りした時にお礼にとお渡しした「地域通貨ぶんじ」。

国分寺の有志ではじめた、「ありがとうカード」と「通貨」の性格を併せ持つ地域通貨だ。今日は、背中を押してくれる道具として力を借りた。

いつもお買い物用に出してくださるお財布に入れてあったので、それをテーブルに取り出した。

 

「介護保険だと、わたしは明日ボジョレをお届けすることはできないけど、“ぶんじでお願い”と言ってもらえたら、行けるなと思ったんです。もしよければ、ですけど。」

 

視線を合わせたまま少し黙って、それからHさんが「あなた、明日行く用があるの?」とおっしゃる。わたしもご飯の買い物にいくついでです、と答える。

「じゃあ、お願いしようかな。あなたも買うの?」はい、Hさんのお話聞いていたら、飲みたくなったから、うちも買ってみます。

 

 

そして、次の日。

お昼前に、訪問の合間の時間を見つけて、スーパーへ。あった~!割れないように包んでもらって、Hさんに電話。

もしもし?今おうちにいらっしゃいますか?

「はい、おりますよ。」

では、今からワイン便をお届けにあがりますね。

「あら、はははは。お待ちしております。」

 

2016年12月1日木曜日

感じ取られている


Jさんは、お話がものすごくおもしろい。

「あんた、サメ(どうやらクジラらしい)と一緒に泳いだことある?あれはね、怖がらせなければやさしーい動物だよ。その上をイカがすいっと泳いでんの。イカが泳いでるの、見たことある?白くなんかないよ、透き通っててきれいなんだよー。あんたにも見せてあげたい。」

 

「わたしはね、お金がないから、ほら、あれだよあれ。そう!アロエを顔につけるの。しわしわの顔だったなんて、信じられる?ほら、触ってみ!ね、すべすべしてるでしょう。アロエをね、すりおろしてこの中に入れておくの。わたしは水で薄めて、本当はお酒がいいらしいんだけど。アロエはいいよ、何にでも効くよ。」

 

他にもいくつかレパートリーがあって、たまに新しい話を聞くこともできる。

デイのお迎えの車が来るまでの間、靴を秘密の隠し場所(その時々によって異なる)から出してもらい、玄関に置いて、おうちの鍵の在り処を聞いてJさんのカバンにしまう。わたしはガサゴソ探さない。出してもらうか、教えてもらうことが大事。

 

靴下を履きましょうというきっかけを作り、リビングの椅子に腰かけてもらう。そして話をしながら靴下を履いてもらう。

あたたかいタオルで顔を拭いてもらうときもあるし、お天気に応じて(そして汚れに応じて)着替えを提案したりする。

 

 

Jさんは、モノが見つからないと「盗られた」と解釈するようになっていた。こういうことに関心のある人は「あー、モノ盗られ(妄想)ね」と思うだろう。「モノ盗られ妄想」というのは、認知症初期の方にみられる行動のひとつ。

 

でも。「認知症のモノ盗られがはじまった」と思ってしまえば、その人の話を聞こうとする自分の気持ちが閉ざされてしまうような気がする。少なくともわたしは。

 

経験を積み重ねて、状況を判断する。これは誰もが同じ。

相手の状況や顔色をみて「今はこの話しない方がいいかな」と判断したり、

目から涙を流し顔を覆っている人を見て「悲しいことがあったのかな」と思うように、

ココにあるものがない時には(置いた場所を忘れているから)「盗られた」と思う。

 

認知症は脳の病気と言われるけれど、脳の中で正常に機能しなくなっているのはほんの一部分で、残りの90%程度は正常に動いているそうだ。カバンの中にあるはずのものがないという状況を、Jさんは自分の経験の引き出しを使って理解しようとしている。

 

全部が全部ではないけど、中には本当にあったのかどうか分からないものもあるけど、「盗られた」もののエピソードがいくつかある。できる範囲でそのストーリーを聞いてみる。過去にあった悲しい経験が、そのストーリーに引きずられて出てくることもある。

 

 

 Jさんとの時間を過ごせていない時、この「盗られた」訴えが止まらなくなるような気がしている。

Jさんとの時間を過ごせていない時」というのは、
早くしないとデイサービスのお迎えの車が来てしまうとか、
そうなると、「準備できてないの?このヘルパー使えない~」と思われてしまうと気にしているとか、
Jさんのお宅に来る前にかかってきた全く別件の電話が気になっているとか、そういう時だ。

言葉には出さないけど、しっかりと感じ取られている。わたしがどこを見ているのか。

「あんた、なんで私を椅子に座らそうとするの?あーそうかい、デイの送り出しだね。“わたし”んとこに来たわけじゃないのね。」

そういう声が聞こえる気がする。

 

わたしが我欲の方向に引っ張られずに、目の前のJさんのところにいることができたとき、ご褒美がもらえる。それが、あのものすごくおもしろい話だ。
                                                    (え)

2016年11月24日木曜日

【11/26追記】11/26~27 バードハウス・バードフィーダーワークショップ!

※バードフィーダーはおかげさまで完売しました。どうもありがとうございます!
  11/27は、バードハウスキットのみのご用意となります。

  どうぞよろしくお願いいたします。


今日はお知らせです!

いよいよ今週末にせまってまいりました、
「加藤けんぴ店 1周年だヨ!全員集合」。

ねじまき雲さんとか、
tocoro cafeさんとか、
いずん堂さんとか、

そうそうたる面々が、加藤けんぴ店の周りでお祭り騒ぎです。
だってお祝いですから。

もちろん、お隣さんとしてわたしたちも黙っているわけにはいきません!
バードハウス・バードフィーダーワークショップを
下記の時間帯におこないます。

11/26(土) 15:30~17:30
11/27(日) 15:30~17:30

どちらも数量限定!
在庫がなくなり次第終了となりますので、
あらかじめご了承ください。


本業の都合上、予約等は受け付けておりません。
こちらも、ご理解いただければ幸いです。



今日の突然の雪で、
ことりさんたちが無事木陰に避難できていることを願ってやみません!
おてんとさま、どうかよろしくお願いします!





2016年11月8日火曜日

出会った分だけ



わたしたちが訪問する先というのは、多くの場合、お一人で生活するには不自由があるという方のお宅です。「多くの場合」と前置きしたのは、その「不自由」を抱えているのがご本人だけではなくパートナーの方だったり、お子様やご親戚、はたまたご近所の方だったりするケースもあるからです。

 

そこで目の当たりにするものは、誰もがあこがれるような、死の直前まで自立していて明朗快活で、呆けもないという状況とは異なっているかもしれません。もしかすると「こうなったら嫌だな」「こうなってまで生きていたくない」と想像するような老後、かもしれません。

 

では、わたしたちは何をどんな風に感じながらケアに入っているかというと、

その様々な老いの姿に出会いながら、「いいなぁ」「こんな風に年を重ねたい、いや重ねられるかしら、自分に。」と思い、帰宅してからもそういう話題が尽きない。そんな感じです。

別の仕事をしている方には、「人がいいのね」とか「わたしには無理」とか言われるのですが。

 

 

ある日のこと。その感じ方の「違い」について夫婦で話すことがありました。なんでわたしたちはこんな感じ方をしているのかね、と。その時に辿り着いた答えは、「出会っているおじいちゃんおばあちゃんの数の違いじゃないか」というものでした。残念ながらわたしたちの受け止める懐の大きさでも、感受性の豊かさでもなく。

 

例えば、子どもの頃の自分を思い出してみると、身近な大人にずいぶん影響を受けていたなと思います。花屋さんでおまけのチョコレートをもらえば「花屋さんになる」と言い、学校生活が充実していれば「先生になる」と言っていましたし、母が突然「ダムを見に行こう!」と言えば大人になったら自由だなと思ったり、墨汁をTシャツに付けても「あら、そう」しか言わない先生を見て「大人になってもできないことはあるんだ」と思ったり。

いろいろな大人と関わることで「こんな大人もいるんだ」「大人でもあんな人いるんだ」などと子どもながらに思えていたし、気づかないうちに自分の可能性も広がっていた。あんな大人になりたいとか、こういう大人にはなりたくないなんてことも考えられていたなと。

もし、親しか知らずにいたら、「大人像」は違ったものになっていたはずだし、窮屈な気持ちになることもあったかもしれない。

 

 

話は戻って、わたしたちは今たくさんのお年寄りに出会っています。そのお話や居住まい、佇まいからどれだけのものを受け取っていることか。何度自分のなかの凝り固まった「老いる」という概念を修正したことか。

「この仕事をしていると、いろんな話を聞くことができるし、とても勉強になります」というのも本当に本当ですが、出会うことですでに受け取っているものがあると思うのです。

その証拠に、わたしは年を重ねることが楽しみですし(どんなかたちの老化であれ!)、少なくともケア中に「自分がこの立場なら、生きていない方がまし」と思うことはまずありません。

 

「老化」は、自分自身が変化していくこと。どんな風に変化していくのかは、今のところ誰にも分からないし、可能性は無限に開かれています。それが楽しみで仕方ない。目が見えない自分、忘れやすい自分、身体が思うように動かない自分、意固地になる自分。もしかすると、こんなことを考えていた自分を懲らしめてやりたいと思うかもしれません。
 
                                                        (え)

2016年11月4日金曜日

掲載していただきました



しばらく、ブログの更新ができずにいました。

「できずにいました」と言うと、言い訳めいていますね。

「していませんでした」でいいのかもしれません。

こういう、言葉の使い方に弱っちかったりズルッコシイ自分が見え隠れするので、基本的には自分でブログは読み返せません。はずかしいからです。

 

さて。

ずいぶん日が経ってしまいましたが、

先日2つほど取り上げていただいたので、ご報告です。

 

ひとつは、「ぶんはぴ」さん。


もう一つは、「東京新聞」さんです。
 
 
 

ぶんハピさんは、わたしたちが取材をしていただいた初めての方。
 
思っていることを言葉にする・伝えるというのは、むずかしいものですね~(遠い目)
好き勝手に話すわたしたちを前に、代表の阿多さんと取材をしてくださったカツキさんも「これは記事にするのがむずかしそうだ」と呟かれ…。真剣に、かつ楽しそうに話を聞いてくださったので、ついついあれこれと話しすぎてしまいました。
 
丁寧にやり取りをしてくださり、それだけでうれしくなってしまいました。ごめんなさい!そして、ありがとうございます。

その後初めてお会いする方から、「あれ?どっかでお会いしたことがあるような…あ!そうか、ぶんはぴで読んだんだ!」と声を掛けていただくこともあったりして。
ぶんハピさん、国分寺でのご活躍に便乗させていただき感謝です。

 

東京新聞さんは、お隣のねじまき雲さんに取材にいらしていたときに偶然表でお会いして、
「(事務所を)載せてもいいですか?」「いいですよ」パチリ(写真の音。デジカメだからこんな音じゃないか。)というやり取りだけだったのですが、

どなたかがステキに説明してくださったようで、コメント付きで載っていましたのでびっくりしました。

「東京新聞に載ったらしい!」と、東元町商店会の会長さんにお話したら、お忙しい中探し回ってくださり、次の日にコピーして届けてくださいました。なんと!
「訪問介護事業所が新聞に載っているの、初めてみました」とメールをくださった方も。
いい人たちに囲まれています。ありがとうございます。

それにしても、こういう絵が散りばめられた地図って、大好きです。この絵の場所はどこにあるんだろう、と地図の上を実際に歩いているような気分になります。

 
 

今日は国分寺は秋晴れです。

事務所前のジュンベリーが紅葉していて、空気まで黄金色になっているような気がします。

2016年10月5日水曜日

まちの名店

「訪問介護ことり」がある、国分寺市東元町商店会には、
えっと、何と言いましょうか、個性豊かな面々がいらっしゃいます。へへへ。

お祭りやお祭りやお祭りで、いっしょに汗水流す機会はよくあるのですが、
意外とゆっくりお話しすることはありません。
それでも顔をみれば「おー!」と片手を挙げて道路の向かいから声をかけてくれたり、
事務所の明かりがついていたからと立ち寄ってくれたり、
おすそ分けをし合ったり。えぇ、大好きです。国分寺が。


ある日のこと。
まちのカフェレストランに、今年もぶんぶんうぉーくのことで伺いました。
国分寺産の野菜をつかった「地場野菜deグルメ」改め「こくべジ企画」に今年も参加していただけることになり、その特製メニューの撮影をするためです。

お客さんの少ない時間帯をあらかじめ確認して行ったので、その特製メニューの話などをゆっくりと。
そのうち、話すこともなくなって、お互いの仕事の話になりました。

結論を先に言ってしまうと、
その後に話してくださったことを聞いて、わたしはそのお店もそのご夫婦のことも大好きになりました。このまちに、こんなお店があってくれてよかった、と。


長い間続いているそのお店は、お客さんのほとんどが常連さんだそうで、
「だから、あの人最近顔見ないね。どうしてるかな、という話もできるんだよね」、と奥さま。
「こういう店だからさ、顔見て年寄りだったら塩をちょっと減らすとかね、柔らかくするとかさ、そういうことができるんだよ。」とマスター。
うわぁ、いいですね。そういうのがいいですよね、とうなずく。
心の中では、こんなお店本当にあるんだな、こんな近くにあったんだなとホクホクしてくる。

「そういえばさ」と奥さま。「風邪ひいてるから、おじや作ってよって人もいたよね。」
「あとは、天丼のリクエストが来たこともあったなー。」とふたりは笑い出しました。
洋食が売りのお店なのに、おじやに天丼。
このお店があることで、生きやすくなっている人いるんだろうなと思いました。

「マスターは何でも作れちゃうから」と目くばせする奥様。

「まぁ、混んでるときはできないけど。でも、俺は客だぞって人はいないよね。大体混んでいるときは様子を見計らって、”ごめん、ちょっといい?”って感じだね。」



帰り道、「あんな話を聞けるとは思わなかったね」「また行こうね」と話しながら事務所に向かいました。

国分寺、とってもいいまちです。
このまちで年をとりたいなと思いました。

2016年9月30日金曜日

長電話

Iさんから電話。
事務的なことについてのお話だったが、
その後、お友だちの話やお稽古の話をしてくださり。

そのほがらかな話し声に、こちらまで笑顔になっていたら、

「だから、あなた大丈夫よ。きっといいことがあるわ!」
と突然大きな声で励まされ、
「では、ごめんください」ガチャッ
と、電話が切れた。


時計を見ると、20分話していたみたい。
わぁ、長電話なんて学生以来だ~と心が弾む夕方なのでした。



  ちなみに、
  Iさんは最後の挨拶をしながら、受話器はすでに下ろし始めているので、
  電話の向こう側にいると突然「切られた」風に聞こえる。
  はじめはびっくりしたけど、電話口に立っている姿をみてその謎が解明した。
  今では、ガチャッと電話を切る姿が想像できるので、何となく笑みがこぼれてしまう。

(え)

2016年9月19日月曜日

思わせぶり

仕事柄、移動中の日焼けは避けられない。
日焼け止めを塗っても、入浴介助中の汗や雨で流れてしまうこともしばしば。
長袖やサンバイザーで防いでいるヘルパーさんを見ると、偉いなぁと思う。
そのため、夏が終わるころには結構いい色に仕上がる。


さて、先日のこと。
訪問の間に少し時間が空いたので、
近くのドラッグストアへ足りなくなった日用品を買いに行くことにした。

駐輪場に自転車を停めていたら視線を感じて、ちらっと横を向いた。
おじいちゃんに少し足を踏み入れたくらいのおじさんが、
太陽のような力強い笑顔で、うれしそうにこちらを見ている。

ん?どこかでお会いしたのかな。
誰かのご家族・・・かな。
いや、えっとやっぱり初めてお会いする方のような・・・。

自転車の位置を直すふりをしながらチラチラ見てみるけど、
おじさんの視線は一向に変化なし。ニカーッとしてる。


うん、とりあえず会釈をして、それでお店に入ってしまおう。
その作戦で横を通り過ぎようとしたら、

「あー、よく焼けてる!それによく鍛えている、うんうん。」と、満足げに確認され、
「あんた、何の選手だ?何かの選手だろう?!」と、うれしそうに声を掛けられた。


ひゃー!
焼けているのはお仕事柄なんです!
背が高いけど、運動神経は悪いし、腹筋もできないんですっ!
と心の中で叫びながら、

笑顔で「違います~」と手を振って、立ち去ろうとするも、

おじさん、
「いや、絶対そうだ。いや~、よく焼けてる!」と背中に向かって話し続ける。

違うんです、違うんです・・・あー・・・・
と思いながら、笑顔で手を振って店内へ。


おじさん、うれしそうだったな。
できればバンテリンとかサポーターとか買ってる姿を見せてあげたいけど、必要ないから、
ささっとトイレットペーパーを買って再会しないように帰ろう。


思わぬネタができた、そんな晩夏の午後でした。
(え)

2016年9月9日金曜日

歌というかたちを借りて

90歳のお誕生日を数年前に迎えたIさん。
「ほんとよー」が口癖です。

「あの曲、どうなりました?」と尋ねると、
「そうなのよ、ちょうどその話をしようと思ってたところ。テープお聞きになる?」と、カセットレコーダーを探してくださった。

Iさんはコードも習得されていて、伴奏なしの譜面でもコードが書いてありさえすればピアノで弾き語りできる。
「指を動かすのが脳にいいのよ」とか、
「ドミソって思って、脳に伝わって、ドミソって弾くっていう流れがいいみたい」とか、
「歌うって深く呼吸するでしょ、それが体にもいいのよね」とか、
歌うことと健康を、テレビや何かで知った情報と組み合わせて話してくださる。


でも、今日お話を聞いていて、
もしかしてこれって心にも体にもすごく影響しているのでは?と思ったことがあった。
それは、「だれかの前で自分を表現する」ということ。

Iさんが通う歌の先生のもとには、ほかにも生徒さんがいらっしゃるそうで、
お話を聞いていると、下は50代くらい~上はなんと100歳。

その方々全員に、たしか2カ月に1回くらいのペースで前に出て歌う機会がある。
そこでの表現は、誰からも優劣つけられることのない、その人だけの舞台。
その刺激って、脳トレの何千倍くらいになるんじゃなかろうか。


「気持ちを込めてって言われても、こんなロマンスは経験したことないわよ」
「そうよね、ふふふふ」
「何言ってるのよ、この時だけはそのつもりになって歌うのよぉ」
そんな会話を繰り広げながら、
先生からのアドバイスを聞いたり聞き流したりしながら、それぞれが自分なりに表現する場。

歌というかたちを借りて、きっとそこではその人が浮き上がってくる。そんな気がする。
でもきっと、おばあちゃまたちはそんな風には考えずに、「次あなたよ」と言いながらそわそわしているんだろうな。だからこそ、飾らないその人の歌が出てくるんだろうな。

その場面を一度も見たこともないのに、イメージだけはどんどん広がります。


こういう機会は大人になるとだんだん減ってくるような気がする。
本音は言いにくい、言えば「ガンコね」と言われたりもする。


「みんな(身体の)どこかしら悪いのよ。お茶を飲みながら話すのは、どこが悪いとか誰が何の病気になったとかそういう話。それでも来て歌うのよ。」

もはやわたしのイメージの中では、カッコいいおばあちゃんの集団でしかない。
きっと街で見かけても、その方たちだとは気がつかないだろう。
でも、どんな人の中にもこういうカッコよさがあると思うと、もっと話をきいてみたいなと思うのである。

(え)



2016年8月29日月曜日

人に関わるということは

学生の頃、ふとしたきっかけで、
まちの人やコトをつなぐ人のもとでインターンをすることになった。
その方はもちろんのこと、その時期に出会った人たちとのやりとりは、
今でも自分の心根を支えてくれている、と感じている。
何よりも、暮らしの中にある感覚や知恵の蓄積に、暮らしている人々の言葉に敬意を払うようになったのは、
そこで過ごした時間があったからだと思う。

人間臭くて、がむしゃらで、真剣で、無邪気なその人たちの言葉を、
家に帰ってからノートに書き留めていた。
今日、ほかの探し物をしていたら、その切れ端がひらりと出てきた。

この話をしてくれた人の顔ははっきりと覚えていないけど、
雰囲気は記憶のなかにしっかりと残っている。
難民支援をしていて、少年たちの保護司をされている方だった。




「人に関わるということはね、
失敗だってするよ。
そりゃ、するさ。

それも全部背負うんだよ。
背負えよ。

何が正しいかなんてわからない。
この前こう言って成功したから、
次もそうだなんて限らない。
どこでどんな行動を起こして、
どんな言葉をかけたらいいのかなんて、
マニュアル化できるもんじゃない。

でも、関係づくりなんだよ。
関係を築いていかないと
何にも伝わらない。

器用に、いい部分だけなんて掴めない。
掴もうとしたら、まわりの掴みたくない部分だって少しは掴んじゃうんだ。
だから、そういう部分も掴んじゃうってことだよ。

そうだろ?」

(え)

2016年8月23日火曜日

答えは目の前にある

ことり新聞第2号を(やっと)制作中。


わたしたちは、いわゆる「認知症」について日常的に話をしている。
話のきっかけは、だいたい同じで、
巷の認知症に関する共通認識と自分たちが感じていることがちょっと違うみたいだ、というところから始まる。

もう少し言葉を変えるなら、
わたしたちが出会っている○さんや△さんは「認知症」と診断されている。
認知症の○さんではなく、○さんを構成する要素のひとつが「認知症」と名付けられたのだけど、
ニュースやマスコミ、本などに「こういうものですよ」と書かれている内容に、うんうんと頷けず、「そうかねぇ」と思うことがある。

そういう部分もあるかもしれないけど、これじゃぁそれが全体のようだね、とか、
ある一つの窓からしか認知症を覗けないようになっているような気がする、とか。


ありがたいことに、ことり新聞は役に立つことを書くことが目的ではなく、わたしたちが見聞きしている日々を伝えるためのものだから、
感じたことや伝えたいこと(伝えられること)、まだまだ考えてみたいことを
いつものように、取りとめもなく書き連ねてみよう、ということになった。


清書をしながら、「あ、」と思う。
なんとなくニーズのありそうな、対処方法みたいなものはわたしたちの話題に挙がらなかった。

そして、「あぁ」と思う。
こうすれば絶対OKなんてことはないって思っているからだ、と。

1人ひとり違う人生を歩んできているから、
こういう時にこうすればいいと一括りにはできないし、
同じ人でも、その状況によっていつものやりとりが違う意味を持つこともあるし、
さらに言うなら、齋藤さんがそれを言うのとわたしがそれを言うのとは違うってこともある。

行動や言動には理由があるって思っているから、
マニュアルは作れないし、作っても当てはまらないことはたくさん出てくると思うし。

認知症恐怖症というものがあるとしたら、
行動や言動には理由がない、理解できない、コミュニケーションが取れないと思っているからなんじゃないのかしら、と思えてくる。
何となく。


それでも、
先輩方の書いた本を読んで、あぁこんな風に対応するといいのかと思うことがある。
とっても勉強になる。
怖いのは、その新しく手に入れた道具を使ってみたいと思っている時。
自分が見ているのが目の前の人ではなくて、手元の道具になってしまうとき。


勉強は必要。知らなければできないこともある。
でも、わたしのストーリーに引き寄せるのではなくて、相手を辿っていくような位置にいられるようにしたい。

(え)

2016年7月29日金曜日

移動中の出会い

訪問先への移動は、わたしは自転車で、もう一人の齋藤はバイクで。

移動中は風が気持ちいいですし、おもしろいことにもよく遭遇します。


ある日、幹線道路沿いのゆるい坂道を自転車で下っていると、
ワゴン車が横を通り過ぎました。
その窓から、小学校低学年くらいの男の子が窓を開けて
両手をブンブン振って、こちらに向かって何か叫んでいます!

「アーモーーレーー!」笑

いや、でも大人ですから、わたし。
余裕の笑みでニコッと会釈をしました。照れてなんかいませんよ。
信号で止まったその車を追い越すときにも、再度「アモーレ!」と叫んでくれました。笑

車の中には何人か同じくらいの年齢の男の子。
友だちと一緒にお出かけで楽しいんだろうな、はしゃいじゃうよね。
「バーカ!」でもいい筈なのに、「アモーレ」とは・・・やるもんです。



そして、またある日の移動中。
久しぶりに暑い午後。日差しがまぶしくて、頭もクラクラします。

前を走っている自転車を追い越そうとしたら、
「暑いね~」と声をかけられました。どうやら自転車を運転してるのはおじいちゃんのようです。
「ほんと、暑いですね~」少しだけ振り返り、親しみを込めてお返事。

そのまま走り去っていくわたしの背中越しに、
・・・あれ?おじいちゃん、まだ話を続けてるっ?

「でも、あんたは健康そうだ!運動してるからだな?」
「おれは顔色見ればわかるよ、健康そのものだな!」

それにしても、よく通る声ですなぁ。
わたしはそっちまで聞こえるように、大きな声で笑い続けました。
おじいちゃん、また今度ゆっくり話しましょう!

2016年7月20日水曜日

ちいさなひまわりの話


ちいさなひまわりの話。

























たんぽぽよりもちいさなひまわり。

冬、ことりさんたちのごはんとして、用意したひまわりの種。

女の子が遊びに来て、その種を植木鉢に植えた。


咲くのかな?
どーだろうね。


大きくなるのかな?
どーだろうね。



春になり、芽がでてきた。

芽が出てきて、よろんだ女の子は、水をたくさん上げた。

でも、その鉢植えには大切な木が一緒に生えていて、春にはあまり水をあげないのがいいらしい。

ぼくは、あまり水をあげないでねと強い口調でいうと、女の子は水を上げなくなってしまった。


ひまわりと女の子、ごめんなさい。


それでも、ひまわりの芽は少しづつだが上に上に伸びていった。

僕はかくれて水をあげていた。

たまに、しおれそうになる時もあったが、水をあげると元気になった。

葉っぱに青虫がついて、ほとんどたべられそうになったとき、青虫さんに引っ越しをお願いして、なんとかなった。




夏。


ちいさなちいさなひまわりが咲いた。


女の子にひまわりが咲いたことを伝えたら、


「ほんとだ!でも、ちいさいね。大きいのがいいね」


ちいさくてもいいじゃないかと僕は思ったが、口にしなかった。





2016年7月19日火曜日

すごいタイミングで

その日は、少し落ち込むことがあり、
事務所に戻って来てからも、なんとなく気分が沈んでいました。


「大丈夫?ちょっとグッタリしてるけど。」
「うん、ちょっと休めば大丈夫だから」
・・・なんていうやり取りをしていたまさにその時!

昔、電気屋さんのおかみをやっていたというキラッキラした天使が事務所にやってきて、
30分くらいバーッとしゃべり続けて、
「よかったらこれ食べてよ!」と袋を差し出して帰っていきました。

袋の中には、
胡瓜の糠漬けと、
泥だらけのミョウガ6個、
小分けのアーモンドフィッシュ(大好物)3ヶ
「マルエツのメンチカツ味」のポテトチップス(カルビー)。


天使がいなくなった事務所には、明るい余韻だけが残っていて、
「すごいタイミングだったね・・・」と、わたしたちは呆気にとられていました。


天使、御年70代前半。
今月末にフラダンスの発表会があるそうなので、見に行こうと思います。

2016年7月11日月曜日

折々のことばより

朝日新聞の朝刊に連載されている「折々のことば」。
何となく、やはり、介護にまつわる言葉に目が行ってしまう。
いくつか。


2015.7.8
「やっぱり年上かのう」  泉重千代
 
かつて世界最年長の男性としてギネス記録に登録された泉重千代さんが「好きな女性のタイプは?」と聞かれ、こう答えたという。

ユーモアで世界は変わる!



2016.5.5
「ねえ、チキンのヘリコプターに乗ったらなあに?」「そんなのに乗ったら、おズボンが油だらけになっちゃうぞ」    菅原和孝


人類学者は、調査でアフリカに同行した自閉症の長男と一日に何十回とこの問答を繰り返した。
そして不思議なこの質問を、彼にすっとさしのべられ、その腕をとらえて離さない息子の「手」と同じものと感じた。語らいの中で人は他者とのつながりを確かめる。歌唱と同じで、意味ではなく身体を通して支えあう。「身体の人類学」から。


例えば、
朝4時に「おなかがすいた」と起こされる。6時になると「ご飯はまだか」。
朝食が済んでの、10時「まだ食べていない。ご飯を食べさせてもらっていない」。



例えば、
「身体が痛い」と。どこが痛いか、わからない。動かそうとすると「痛い、あほ」



「おなかがすいた」は、おはようの挨拶かもしれない。
「痛い、あほ」は、つたわったぬくもりなのかもしれない。



ちがうかもねー。

でも、一つの視点、自分の考えだけだと、固い壁になってしまう。
受けた言葉を、跳ね返してしまうだけ。



ユーモアを持とう。
世界は、もっとやわらかく、豊かである。





2016年7月8日金曜日

半世紀ちがい

Yさんが、お誕生日を迎えた。
御年86歳。

お風呂で髪の毛を洗いながら、
「農地解放で生活がガラリと変わって・・・」と話し始める。
歴史の授業で習ったことが、生活の一部として語られるので、
その生々しさに仰天してしまう。

ことり「わー、何か今すごい話を聞いちゃった気がしますよ!」

Yさん「そうだろ?こんな話、聞いたことないだろ?」

ことり「えぇ、そりゃもう。あーYさん、その時まだ小っちゃかったんだ・・・」

Yさん「そりゃそうだよ、齋藤さん。あんたとわたしじゃ、半世紀ちがうんだからさ!」


わたしたちの年の差は50歳、というのは分かっていたけど、
世紀単位で考えたことはなかったなぁ。
そうか、半分か。

2016年6月30日木曜日

おうちを出た後で


おうちを出た後で、

あれでよかったのかな、ほかのやり方はなかったのかなと思うことはたくさんあります。

 

身体を使うケアであれば、検証・検討することでよりいい方法に出会えることもありますが、

その合間の、人と人が向き合っているな、というような時間には、

答えのない、技とかではない、その状況でしか生まれない時間が流れているような気がします。

 

仕事であるけど、だからといって割り切れるという感じでもなく、

人の人生に向き合っていて、だけど関われることは限られていて、

深く関わろうとすれば距離がうまく取れなくなる。

 

 

マニュアルではなく(きっともしマニュアルが100あったとしても、たいていの方は当てはまらない)、その時々の「自分」が試されている。

こちらのルールに当てはめていないか、逃げていないか、自分の常識で考えていないか、

ちゃんと耳を澄ませているか。

 

 

この仕事が好きだな、楽しいなと思う気持ちと同じくらい、

「これでいい」「わかった」という気持ちにならないことが、

自分を後押ししてくれる、という気がしています。

2016年6月15日水曜日

今日のことり

Bさんはおしゃれさん。
お若い頃にはミス○○にもなったことのある、美意識の強い方です。


Bさん「わたし、あの人はお腹が出ているからイヤなのよ。」

ことり「Bさんはスマートですもんねぇ。でも、お腹ならわたしもトホホです(苦笑い)」

Bさん「あらっ!あなたは凹凸ないじゃない?」

トホホ・・・

2016年6月3日金曜日

『ピリとパリは、やっぱりなかよし』

ご近所さん(小3)が遊びに来た。
めずらしく静かにしているので、こちらも仕事に集中。しばらくすると、「ねぇお話つくったよ」と声をかけてくれた。

なのにわたしと来たら、パソコンと書類と数字と格闘しており、「おー」と声だけの返事をして、パソコンをパチパチ。

「じゃーねー」と言う声が聞こえて、「あ…」と彼女がいたあたりを見ると、大きな黒板の真ん中にぎっしり文字が敷きつめてあった。
 
 
ずいぶん字がきれいになったな。
黒板の向かいに座って、その「お話」を読んでみる。途中で終わっていて、でもなんだかとてもいい。登場人物の名前がいいし、あんまり説明しないのもすごくいいなぁと思った。わたしだったら、なんでケンカしたかとか書いてしまいそう。もっともらしく、うんうんと言ってもらえそうなことを。

 

続きが読みたいとその子に伝えたら、しばらくしてからまた書きにきてくれた。

 

 

事務所に来る人来る人に「ねぇ、これ読んだ?すごくいいの。」と言うと、端がぴしっと揃っているところがいいねとか、文字の大きさに強弱があるのがいいとか、それぞれ好きなところがあるみたいでそれもまたいい。

次の次の日くらいに「あれ、すごくよかった!」と伝えると「うんー」と別の遊びに夢中みたいだった。

 


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「ピリとパリは、やっぱりなかよし」
 
 

むかしむかしあるところに、ピリとパリがいました。

ピリは女の子で、パリが男の子でした。

2人はいつも一緒にいました。

 

ある晩のこと、ふたりはケンカをしました。いつも仲良しなのにはじめてケンカをしました。

それからあるとき仲直りをしました。

 

その時、とつぜん鳥がきました。

何をしているのかなぁとふたりは悩んでいました。近づいて見ようと思ったら、逆に鳥が近づいてきました。

 

見てみると、カラスが小鳥を追いかけていました。

ふたりはそれを見てかわいそうだなと言いながら助ける方法を考えはじめました。それでふたりはいい方法を思いつきました。ふたりの方法は全くおんなじでした。

 

それでふたりは力を合わせてカラスを追い払いました。小鳥は楽しく暮らしました。
 
 
 
 
(改行や句読点など、修整しています)

 

2016年5月26日木曜日

ベンチ友だち

訪問先から帰ると、
ことりのパンフレット挿しに、お届け物1件あり。


あぁ、きっとあの方だ!と思い浮かべてニヤリ。



その日の夕方、
事務所の前のベンチに座る、見慣れた背中あり。
駆け寄って、声をかけると、
「あー、わかった?」と眼鏡の奥のやさしい目とよく通る声。

「お花をもらったのよ、でもわたし出掛けるところだったからさ」、とKさん。
早速花瓶に活けました、すごくうれしい、とわたし。

にこっと笑って、
「ここのベンチ、すごく助かる。脚が悪いからさ、年寄りにはこういうのいいのよ。」
そう言うと、じゃ!と片手を挙げて、コミュニティバスに乗っていってしまった。
去り際がかっこいい。
からりとした余韻が残る。


事務所の目の前にはバス停がある。
敷地ギリギリのところに置けば、座ってバスを待てるよねとベンチを作った。
今日も誰かが座ってる。
知らない人とあいさつをする、いい口実になる。



《補足》
Kさんからのお届け物、
冬にはこんなポップな組み合わせのこともあった。