2016年11月4日金曜日

掲載していただきました



しばらく、ブログの更新ができずにいました。

「できずにいました」と言うと、言い訳めいていますね。

「していませんでした」でいいのかもしれません。

こういう、言葉の使い方に弱っちかったりズルッコシイ自分が見え隠れするので、基本的には自分でブログは読み返せません。はずかしいからです。

 

さて。

ずいぶん日が経ってしまいましたが、

先日2つほど取り上げていただいたので、ご報告です。

 

ひとつは、「ぶんはぴ」さん。


もう一つは、「東京新聞」さんです。
 
 
 

ぶんハピさんは、わたしたちが取材をしていただいた初めての方。
 
思っていることを言葉にする・伝えるというのは、むずかしいものですね~(遠い目)
好き勝手に話すわたしたちを前に、代表の阿多さんと取材をしてくださったカツキさんも「これは記事にするのがむずかしそうだ」と呟かれ…。真剣に、かつ楽しそうに話を聞いてくださったので、ついついあれこれと話しすぎてしまいました。
 
丁寧にやり取りをしてくださり、それだけでうれしくなってしまいました。ごめんなさい!そして、ありがとうございます。

その後初めてお会いする方から、「あれ?どっかでお会いしたことがあるような…あ!そうか、ぶんはぴで読んだんだ!」と声を掛けていただくこともあったりして。
ぶんハピさん、国分寺でのご活躍に便乗させていただき感謝です。

 

東京新聞さんは、お隣のねじまき雲さんに取材にいらしていたときに偶然表でお会いして、
「(事務所を)載せてもいいですか?」「いいですよ」パチリ(写真の音。デジカメだからこんな音じゃないか。)というやり取りだけだったのですが、

どなたかがステキに説明してくださったようで、コメント付きで載っていましたのでびっくりしました。

「東京新聞に載ったらしい!」と、東元町商店会の会長さんにお話したら、お忙しい中探し回ってくださり、次の日にコピーして届けてくださいました。なんと!
「訪問介護事業所が新聞に載っているの、初めてみました」とメールをくださった方も。
いい人たちに囲まれています。ありがとうございます。

それにしても、こういう絵が散りばめられた地図って、大好きです。この絵の場所はどこにあるんだろう、と地図の上を実際に歩いているような気分になります。

 
 

今日は国分寺は秋晴れです。

事務所前のジュンベリーが紅葉していて、空気まで黄金色になっているような気がします。

2016年10月5日水曜日

まちの名店

「訪問介護ことり」がある、国分寺市東元町商店会には、
えっと、何と言いましょうか、個性豊かな面々がいらっしゃいます。へへへ。

お祭りやお祭りやお祭りで、いっしょに汗水流す機会はよくあるのですが、
意外とゆっくりお話しすることはありません。
それでも顔をみれば「おー!」と片手を挙げて道路の向かいから声をかけてくれたり、
事務所の明かりがついていたからと立ち寄ってくれたり、
おすそ分けをし合ったり。えぇ、大好きです。国分寺が。


ある日のこと。
まちのカフェレストランに、今年もぶんぶんうぉーくのことで伺いました。
国分寺産の野菜をつかった「地場野菜deグルメ」改め「こくべジ企画」に今年も参加していただけることになり、その特製メニューの撮影をするためです。

お客さんの少ない時間帯をあらかじめ確認して行ったので、その特製メニューの話などをゆっくりと。
そのうち、話すこともなくなって、お互いの仕事の話になりました。

結論を先に言ってしまうと、
その後に話してくださったことを聞いて、わたしはそのお店もそのご夫婦のことも大好きになりました。このまちに、こんなお店があってくれてよかった、と。


長い間続いているそのお店は、お客さんのほとんどが常連さんだそうで、
「だから、あの人最近顔見ないね。どうしてるかな、という話もできるんだよね」、と奥さま。
「こういう店だからさ、顔見て年寄りだったら塩をちょっと減らすとかね、柔らかくするとかさ、そういうことができるんだよ。」とマスター。
うわぁ、いいですね。そういうのがいいですよね、とうなずく。
心の中では、こんなお店本当にあるんだな、こんな近くにあったんだなとホクホクしてくる。

「そういえばさ」と奥さま。「風邪ひいてるから、おじや作ってよって人もいたよね。」
「あとは、天丼のリクエストが来たこともあったなー。」とふたりは笑い出しました。
洋食が売りのお店なのに、おじやに天丼。
このお店があることで、生きやすくなっている人いるんだろうなと思いました。

「マスターは何でも作れちゃうから」と目くばせする奥様。

「まぁ、混んでるときはできないけど。でも、俺は客だぞって人はいないよね。大体混んでいるときは様子を見計らって、”ごめん、ちょっといい?”って感じだね。」



帰り道、「あんな話を聞けるとは思わなかったね」「また行こうね」と話しながら事務所に向かいました。

国分寺、とってもいいまちです。
このまちで年をとりたいなと思いました。

2016年9月30日金曜日

長電話

Iさんから電話。
事務的なことについてのお話だったが、
その後、お友だちの話やお稽古の話をしてくださり。

そのほがらかな話し声に、こちらまで笑顔になっていたら、

「だから、あなた大丈夫よ。きっといいことがあるわ!」
と突然大きな声で励まされ、
「では、ごめんください」ガチャッ
と、電話が切れた。


時計を見ると、20分話していたみたい。
わぁ、長電話なんて学生以来だ~と心が弾む夕方なのでした。



  ちなみに、
  Iさんは最後の挨拶をしながら、受話器はすでに下ろし始めているので、
  電話の向こう側にいると突然「切られた」風に聞こえる。
  はじめはびっくりしたけど、電話口に立っている姿をみてその謎が解明した。
  今では、ガチャッと電話を切る姿が想像できるので、何となく笑みがこぼれてしまう。

(え)

2016年9月19日月曜日

思わせぶり

仕事柄、移動中の日焼けは避けられない。
日焼け止めを塗っても、入浴介助中の汗や雨で流れてしまうこともしばしば。
長袖やサンバイザーで防いでいるヘルパーさんを見ると、偉いなぁと思う。
そのため、夏が終わるころには結構いい色に仕上がる。


さて、先日のこと。
訪問の間に少し時間が空いたので、
近くのドラッグストアへ足りなくなった日用品を買いに行くことにした。

駐輪場に自転車を停めていたら視線を感じて、ちらっと横を向いた。
おじいちゃんに少し足を踏み入れたくらいのおじさんが、
太陽のような力強い笑顔で、うれしそうにこちらを見ている。

ん?どこかでお会いしたのかな。
誰かのご家族・・・かな。
いや、えっとやっぱり初めてお会いする方のような・・・。

自転車の位置を直すふりをしながらチラチラ見てみるけど、
おじさんの視線は一向に変化なし。ニカーッとしてる。


うん、とりあえず会釈をして、それでお店に入ってしまおう。
その作戦で横を通り過ぎようとしたら、

「あー、よく焼けてる!それによく鍛えている、うんうん。」と、満足げに確認され、
「あんた、何の選手だ?何かの選手だろう?!」と、うれしそうに声を掛けられた。


ひゃー!
焼けているのはお仕事柄なんです!
背が高いけど、運動神経は悪いし、腹筋もできないんですっ!
と心の中で叫びながら、

笑顔で「違います~」と手を振って、立ち去ろうとするも、

おじさん、
「いや、絶対そうだ。いや~、よく焼けてる!」と背中に向かって話し続ける。

違うんです、違うんです・・・あー・・・・
と思いながら、笑顔で手を振って店内へ。


おじさん、うれしそうだったな。
できればバンテリンとかサポーターとか買ってる姿を見せてあげたいけど、必要ないから、
ささっとトイレットペーパーを買って再会しないように帰ろう。


思わぬネタができた、そんな晩夏の午後でした。
(え)

2016年9月9日金曜日

歌というかたちを借りて

90歳のお誕生日を数年前に迎えたIさん。
「ほんとよー」が口癖です。

「あの曲、どうなりました?」と尋ねると、
「そうなのよ、ちょうどその話をしようと思ってたところ。テープお聞きになる?」と、カセットレコーダーを探してくださった。

Iさんはコードも習得されていて、伴奏なしの譜面でもコードが書いてありさえすればピアノで弾き語りできる。
「指を動かすのが脳にいいのよ」とか、
「ドミソって思って、脳に伝わって、ドミソって弾くっていう流れがいいみたい」とか、
「歌うって深く呼吸するでしょ、それが体にもいいのよね」とか、
歌うことと健康を、テレビや何かで知った情報と組み合わせて話してくださる。


でも、今日お話を聞いていて、
もしかしてこれって心にも体にもすごく影響しているのでは?と思ったことがあった。
それは、「だれかの前で自分を表現する」ということ。

Iさんが通う歌の先生のもとには、ほかにも生徒さんがいらっしゃるそうで、
お話を聞いていると、下は50代くらい~上はなんと100歳。

その方々全員に、たしか2カ月に1回くらいのペースで前に出て歌う機会がある。
そこでの表現は、誰からも優劣つけられることのない、その人だけの舞台。
その刺激って、脳トレの何千倍くらいになるんじゃなかろうか。


「気持ちを込めてって言われても、こんなロマンスは経験したことないわよ」
「そうよね、ふふふふ」
「何言ってるのよ、この時だけはそのつもりになって歌うのよぉ」
そんな会話を繰り広げながら、
先生からのアドバイスを聞いたり聞き流したりしながら、それぞれが自分なりに表現する場。

歌というかたちを借りて、きっとそこではその人が浮き上がってくる。そんな気がする。
でもきっと、おばあちゃまたちはそんな風には考えずに、「次あなたよ」と言いながらそわそわしているんだろうな。だからこそ、飾らないその人の歌が出てくるんだろうな。

その場面を一度も見たこともないのに、イメージだけはどんどん広がります。


こういう機会は大人になるとだんだん減ってくるような気がする。
本音は言いにくい、言えば「ガンコね」と言われたりもする。


「みんな(身体の)どこかしら悪いのよ。お茶を飲みながら話すのは、どこが悪いとか誰が何の病気になったとかそういう話。それでも来て歌うのよ。」

もはやわたしのイメージの中では、カッコいいおばあちゃんの集団でしかない。
きっと街で見かけても、その方たちだとは気がつかないだろう。
でも、どんな人の中にもこういうカッコよさがあると思うと、もっと話をきいてみたいなと思うのである。

(え)



2016年8月29日月曜日

人に関わるということは

学生の頃、ふとしたきっかけで、
まちの人やコトをつなぐ人のもとでインターンをすることになった。
その方はもちろんのこと、その時期に出会った人たちとのやりとりは、
今でも自分の心根を支えてくれている、と感じている。
何よりも、暮らしの中にある感覚や知恵の蓄積に、暮らしている人々の言葉に敬意を払うようになったのは、
そこで過ごした時間があったからだと思う。

人間臭くて、がむしゃらで、真剣で、無邪気なその人たちの言葉を、
家に帰ってからノートに書き留めていた。
今日、ほかの探し物をしていたら、その切れ端がひらりと出てきた。

この話をしてくれた人の顔ははっきりと覚えていないけど、
雰囲気は記憶のなかにしっかりと残っている。
難民支援をしていて、少年たちの保護司をされている方だった。




「人に関わるということはね、
失敗だってするよ。
そりゃ、するさ。

それも全部背負うんだよ。
背負えよ。

何が正しいかなんてわからない。
この前こう言って成功したから、
次もそうだなんて限らない。
どこでどんな行動を起こして、
どんな言葉をかけたらいいのかなんて、
マニュアル化できるもんじゃない。

でも、関係づくりなんだよ。
関係を築いていかないと
何にも伝わらない。

器用に、いい部分だけなんて掴めない。
掴もうとしたら、まわりの掴みたくない部分だって少しは掴んじゃうんだ。
だから、そういう部分も掴んじゃうってことだよ。

そうだろ?」

(え)

2016年8月23日火曜日

答えは目の前にある

ことり新聞第2号を(やっと)制作中。


わたしたちは、いわゆる「認知症」について日常的に話をしている。
話のきっかけは、だいたい同じで、
巷の認知症に関する共通認識と自分たちが感じていることがちょっと違うみたいだ、というところから始まる。

もう少し言葉を変えるなら、
わたしたちが出会っている○さんや△さんは「認知症」と診断されている。
認知症の○さんではなく、○さんを構成する要素のひとつが「認知症」と名付けられたのだけど、
ニュースやマスコミ、本などに「こういうものですよ」と書かれている内容に、うんうんと頷けず、「そうかねぇ」と思うことがある。

そういう部分もあるかもしれないけど、これじゃぁそれが全体のようだね、とか、
ある一つの窓からしか認知症を覗けないようになっているような気がする、とか。


ありがたいことに、ことり新聞は役に立つことを書くことが目的ではなく、わたしたちが見聞きしている日々を伝えるためのものだから、
感じたことや伝えたいこと(伝えられること)、まだまだ考えてみたいことを
いつものように、取りとめもなく書き連ねてみよう、ということになった。


清書をしながら、「あ、」と思う。
なんとなくニーズのありそうな、対処方法みたいなものはわたしたちの話題に挙がらなかった。

そして、「あぁ」と思う。
こうすれば絶対OKなんてことはないって思っているからだ、と。

1人ひとり違う人生を歩んできているから、
こういう時にこうすればいいと一括りにはできないし、
同じ人でも、その状況によっていつものやりとりが違う意味を持つこともあるし、
さらに言うなら、齋藤さんがそれを言うのとわたしがそれを言うのとは違うってこともある。

行動や言動には理由があるって思っているから、
マニュアルは作れないし、作っても当てはまらないことはたくさん出てくると思うし。

認知症恐怖症というものがあるとしたら、
行動や言動には理由がない、理解できない、コミュニケーションが取れないと思っているからなんじゃないのかしら、と思えてくる。
何となく。


それでも、
先輩方の書いた本を読んで、あぁこんな風に対応するといいのかと思うことがある。
とっても勉強になる。
怖いのは、その新しく手に入れた道具を使ってみたいと思っている時。
自分が見ているのが目の前の人ではなくて、手元の道具になってしまうとき。


勉強は必要。知らなければできないこともある。
でも、わたしのストーリーに引き寄せるのではなくて、相手を辿っていくような位置にいられるようにしたい。

(え)