2016年8月29日月曜日

人に関わるということは

学生の頃、ふとしたきっかけで、
まちの人やコトをつなぐ人のもとでインターンをすることになった。
その方はもちろんのこと、その時期に出会った人たちとのやりとりは、
今でも自分の心根を支えてくれている、と感じている。
何よりも、暮らしの中にある感覚や知恵の蓄積に、暮らしている人々の言葉に敬意を払うようになったのは、
そこで過ごした時間があったからだと思う。

人間臭くて、がむしゃらで、真剣で、無邪気なその人たちの言葉を、
家に帰ってからノートに書き留めていた。
今日、ほかの探し物をしていたら、その切れ端がひらりと出てきた。

この話をしてくれた人の顔ははっきりと覚えていないけど、
雰囲気は記憶のなかにしっかりと残っている。
難民支援をしていて、少年たちの保護司をされている方だった。




「人に関わるということはね、
失敗だってするよ。
そりゃ、するさ。

それも全部背負うんだよ。
背負えよ。

何が正しいかなんてわからない。
この前こう言って成功したから、
次もそうだなんて限らない。
どこでどんな行動を起こして、
どんな言葉をかけたらいいのかなんて、
マニュアル化できるもんじゃない。

でも、関係づくりなんだよ。
関係を築いていかないと
何にも伝わらない。

器用に、いい部分だけなんて掴めない。
掴もうとしたら、まわりの掴みたくない部分だって少しは掴んじゃうんだ。
だから、そういう部分も掴んじゃうってことだよ。

そうだろ?」

(え)

2016年8月23日火曜日

答えは目の前にある

ことり新聞第2号を(やっと)制作中。


わたしたちは、いわゆる「認知症」について日常的に話をしている。
話のきっかけは、だいたい同じで、
巷の認知症に関する共通認識と自分たちが感じていることがちょっと違うみたいだ、というところから始まる。

もう少し言葉を変えるなら、
わたしたちが出会っている○さんや△さんは「認知症」と診断されている。
認知症の○さんではなく、○さんを構成する要素のひとつが「認知症」と名付けられたのだけど、
ニュースやマスコミ、本などに「こういうものですよ」と書かれている内容に、うんうんと頷けず、「そうかねぇ」と思うことがある。

そういう部分もあるかもしれないけど、これじゃぁそれが全体のようだね、とか、
ある一つの窓からしか認知症を覗けないようになっているような気がする、とか。


ありがたいことに、ことり新聞は役に立つことを書くことが目的ではなく、わたしたちが見聞きしている日々を伝えるためのものだから、
感じたことや伝えたいこと(伝えられること)、まだまだ考えてみたいことを
いつものように、取りとめもなく書き連ねてみよう、ということになった。


清書をしながら、「あ、」と思う。
なんとなくニーズのありそうな、対処方法みたいなものはわたしたちの話題に挙がらなかった。

そして、「あぁ」と思う。
こうすれば絶対OKなんてことはないって思っているからだ、と。

1人ひとり違う人生を歩んできているから、
こういう時にこうすればいいと一括りにはできないし、
同じ人でも、その状況によっていつものやりとりが違う意味を持つこともあるし、
さらに言うなら、齋藤さんがそれを言うのとわたしがそれを言うのとは違うってこともある。

行動や言動には理由があるって思っているから、
マニュアルは作れないし、作っても当てはまらないことはたくさん出てくると思うし。

認知症恐怖症というものがあるとしたら、
行動や言動には理由がない、理解できない、コミュニケーションが取れないと思っているからなんじゃないのかしら、と思えてくる。
何となく。


それでも、
先輩方の書いた本を読んで、あぁこんな風に対応するといいのかと思うことがある。
とっても勉強になる。
怖いのは、その新しく手に入れた道具を使ってみたいと思っている時。
自分が見ているのが目の前の人ではなくて、手元の道具になってしまうとき。


勉強は必要。知らなければできないこともある。
でも、わたしのストーリーに引き寄せるのではなくて、相手を辿っていくような位置にいられるようにしたい。

(え)