2016年11月8日火曜日

出会った分だけ



わたしたちが訪問する先というのは、多くの場合、お一人で生活するには不自由があるという方のお宅です。「多くの場合」と前置きしたのは、その「不自由」を抱えているのがご本人だけではなくパートナーの方だったり、お子様やご親戚、はたまたご近所の方だったりするケースもあるからです。

 

そこで目の当たりにするものは、誰もがあこがれるような、死の直前まで自立していて明朗快活で、呆けもないという状況とは異なっているかもしれません。もしかすると「こうなったら嫌だな」「こうなってまで生きていたくない」と想像するような老後、かもしれません。

 

では、わたしたちは何をどんな風に感じながらケアに入っているかというと、

その様々な老いの姿に出会いながら、「いいなぁ」「こんな風に年を重ねたい、いや重ねられるかしら、自分に。」と思い、帰宅してからもそういう話題が尽きない。そんな感じです。

別の仕事をしている方には、「人がいいのね」とか「わたしには無理」とか言われるのですが。

 

 

ある日のこと。その感じ方の「違い」について夫婦で話すことがありました。なんでわたしたちはこんな感じ方をしているのかね、と。その時に辿り着いた答えは、「出会っているおじいちゃんおばあちゃんの数の違いじゃないか」というものでした。残念ながらわたしたちの受け止める懐の大きさでも、感受性の豊かさでもなく。

 

例えば、子どもの頃の自分を思い出してみると、身近な大人にずいぶん影響を受けていたなと思います。花屋さんでおまけのチョコレートをもらえば「花屋さんになる」と言い、学校生活が充実していれば「先生になる」と言っていましたし、母が突然「ダムを見に行こう!」と言えば大人になったら自由だなと思ったり、墨汁をTシャツに付けても「あら、そう」しか言わない先生を見て「大人になってもできないことはあるんだ」と思ったり。

いろいろな大人と関わることで「こんな大人もいるんだ」「大人でもあんな人いるんだ」などと子どもながらに思えていたし、気づかないうちに自分の可能性も広がっていた。あんな大人になりたいとか、こういう大人にはなりたくないなんてことも考えられていたなと。

もし、親しか知らずにいたら、「大人像」は違ったものになっていたはずだし、窮屈な気持ちになることもあったかもしれない。

 

 

話は戻って、わたしたちは今たくさんのお年寄りに出会っています。そのお話や居住まい、佇まいからどれだけのものを受け取っていることか。何度自分のなかの凝り固まった「老いる」という概念を修正したことか。

「この仕事をしていると、いろんな話を聞くことができるし、とても勉強になります」というのも本当に本当ですが、出会うことですでに受け取っているものがあると思うのです。

その証拠に、わたしは年を重ねることが楽しみですし(どんなかたちの老化であれ!)、少なくともケア中に「自分がこの立場なら、生きていない方がまし」と思うことはまずありません。

 

「老化」は、自分自身が変化していくこと。どんな風に変化していくのかは、今のところ誰にも分からないし、可能性は無限に開かれています。それが楽しみで仕方ない。目が見えない自分、忘れやすい自分、身体が思うように動かない自分、意固地になる自分。もしかすると、こんなことを考えていた自分を懲らしめてやりたいと思うかもしれません。
 
                                                        (え)

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