Jさんは、お話がものすごくおもしろい。
「あんた、サメ(どうやらクジラらしい)と一緒に泳いだことある?あれはね、怖がらせなければやさしーい動物だよ。その上をイカがすいっと泳いでんの。イカが泳いでるの、見たことある?白くなんかないよ、透き通っててきれいなんだよー。あんたにも見せてあげたい。」
「わたしはね、お金がないから、ほら、あれだよあれ。そう!アロエを顔につけるの。しわしわの顔だったなんて、信じられる?ほら、触ってみ!ね、すべすべしてるでしょう。アロエをね、すりおろしてこの中に入れておくの。わたしは水で薄めて、本当はお酒がいいらしいんだけど。アロエはいいよ、何にでも効くよ。」
他にもいくつかレパートリーがあって、たまに新しい話を聞くこともできる。
デイのお迎えの車が来るまでの間、靴を秘密の隠し場所(その時々によって異なる)から出してもらい、玄関に置いて、おうちの鍵の在り処を聞いてJさんのカバンにしまう。わたしはガサゴソ探さない。出してもらうか、教えてもらうことが大事。
靴下を履きましょうというきっかけを作り、リビングの椅子に腰かけてもらう。そして話をしながら靴下を履いてもらう。
あたたかいタオルで顔を拭いてもらうときもあるし、お天気に応じて(そして汚れに応じて)着替えを提案したりする。
Jさんは、モノが見つからないと「盗られた」と解釈するようになっていた。こういうことに関心のある人は「あー、モノ盗られ(妄想)ね」と思うだろう。「モノ盗られ妄想」というのは、認知症初期の方にみられる行動のひとつ。
でも。「認知症のモノ盗られがはじまった」と思ってしまえば、その人の話を聞こうとする自分の気持ちが閉ざされてしまうような気がする。少なくともわたしは。
経験を積み重ねて、状況を判断する。これは誰もが同じ。
相手の状況や顔色をみて「今はこの話しない方がいいかな」と判断したり、
目から涙を流し顔を覆っている人を見て「悲しいことがあったのかな」と思うように、
ココにあるものがない時には(置いた場所を忘れているから)「盗られた」と思う。
認知症は脳の病気と言われるけれど、脳の中で正常に機能しなくなっているのはほんの一部分で、残りの90%程度は正常に動いているそうだ。カバンの中にあるはずのものがないという状況を、Jさんは自分の経験の引き出しを使って理解しようとしている。
全部が全部ではないけど、中には本当にあったのかどうか分からないものもあるけど、「盗られた」もののエピソードがいくつかある。できる範囲でそのストーリーを聞いてみる。過去にあった悲しい経験が、そのストーリーに引きずられて出てくることもある。
Jさんとの時間を過ごせていない時、この「盗られた」訴えが止まらなくなるような気がしている。
「Jさんとの時間を過ごせていない時」というのは、
早くしないとデイサービスのお迎えの車が来てしまうとか、
そうなると、「準備できてないの?このヘルパー使えない~」と思われてしまうと気にしているとか、
Jさんのお宅に来る前にかかってきた全く別件の電話が気になっているとか、そういう時だ。
Jさんのお宅に来る前にかかってきた全く別件の電話が気になっているとか、そういう時だ。
言葉には出さないけど、しっかりと感じ取られている。わたしがどこを見ているのか。
「あんた、なんで私を椅子に座らそうとするの?あーそうかい、デイの送り出しだね。“わたし”んとこに来たわけじゃないのね。」
そういう声が聞こえる気がする。
わたしが我欲の方向に引っ張られずに、目の前のJさんのところにいることができたとき、ご褒美がもらえる。それが、あのものすごくおもしろい話だ。
(え)
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