2017年4月18日火曜日

器の中身を捨ててみる



相手が友だちなら、家族なら、こういう時には自分がどうふるまうか想像がつく。

だけど、仕事であり、支援する立場にあるときにどんな風にそこにいればよかったんだろう。

ケアの最中に、そんな出来事があった。


相手が欲しい言葉は分かっているけど、自分はそれを言いたくない。

支援する立場として、言うべきではないと思っている。

でも、それを言えば、相手が満足するのはわかっている。



家に帰ってからも、胸のあたりにべったりと何か貼りついている。

上司でもある夫に相談をする。


結局は、自分の思いどおりでないことに、わたしも苛ついているのだろうか。

相手に対して、こうふるまうべきだとか、そんな考え方をするべきではないと思っているのだろうか。


家の新聞を整理していたら、数日前の「折々のことば」(朝日新聞のコラム)が目に留まった。


基本的に、自分の器を大きくすることはできません。

出口治明


器はもともとの容量が決まっている。入れたいものがあるなら、その中に入っていたこだわりを捨てて、空きを作ればいい。ということのようだった。


わたしの人間としての器なんて本当にちっぽけだ。それなのに、そこに「べき」がたくさん入っていた。自分に対しても、相手に対しても。

ふと胸のあたりに意識を向けてみる。風通しが悪そうだな、という感じがする。ボタンをいくつ外すか、という話ではない。ガチガチに固まっていて、閉じている感じがするなぁ。

2017年4月14日金曜日

表現


「月曜日は、また新人さんを連れてきます。」と言うと、
Gさんは苦笑い。
「そこをどうか、よろしくお願いします。」と頭を下げると、
呆れたような笑顔を見せてくれて、2人で笑った。
 
この間の同行(どうこう。1人でケアに入れるようになるまで、ヘルパーが2人体制でケアに入り、手順やポイントなどを教え、伝えること)の時のことを思い出してみる。
 
「でも…わたしもあんな感じだったかなぁと思うんです、初め。」
そういうと、Gさんが眉毛をあげてこちらを見る。
「あのあと、事務所に戻ったら、あの子、“自分のことばかりに一生懸命になっていた。Gさんが寒いんじゃないかとか、そういうことを見れていなかった”って言ってました。」
うんうん、とGさんが頷く。
「だから、そうそう、そのとおりって。」
 
「人を育てるっていうのは、学ぶことが多いです。初心に戻るというか、そういうことがたくさんある。そういう意味で、わたしはとっても勉強になってるんです。」
と言って、はたと気づく。“自分のことばかりに一生懸命になっている自分”。
「とはいえ、Gさんが安心してお風呂に入れるというのが一番大事で。彼女がそこに辿り着くには…もう少しお時間を!」
というと、Gさんが大きく笑った。
 
 
脳梗塞の後遺症でことばを思うように操れないGさんが、「黙って」話を聞いてくれたことがとてもありがたくて、「また月曜日に!」とお宅を後にした。
 
やりとりしているのは言葉だけじゃない、と身体感覚で教えてくれたのはGさんだ。表情や視線の方向、発する空気…そういうこと全部で表現している。わたしたちヘルパーはリハビリ職ではないので、言葉を要求しなくていい。それ以外の表現をしっかりと待つこと、「見る」こと、それを受け取ってこちらのボールを投げ返すこと、そういうことが耳を澄ませることにつながっている。そんな気がしている。