2016年7月29日金曜日

移動中の出会い

訪問先への移動は、わたしは自転車で、もう一人の齋藤はバイクで。

移動中は風が気持ちいいですし、おもしろいことにもよく遭遇します。


ある日、幹線道路沿いのゆるい坂道を自転車で下っていると、
ワゴン車が横を通り過ぎました。
その窓から、小学校低学年くらいの男の子が窓を開けて
両手をブンブン振って、こちらに向かって何か叫んでいます!

「アーモーーレーー!」笑

いや、でも大人ですから、わたし。
余裕の笑みでニコッと会釈をしました。照れてなんかいませんよ。
信号で止まったその車を追い越すときにも、再度「アモーレ!」と叫んでくれました。笑

車の中には何人か同じくらいの年齢の男の子。
友だちと一緒にお出かけで楽しいんだろうな、はしゃいじゃうよね。
「バーカ!」でもいい筈なのに、「アモーレ」とは・・・やるもんです。



そして、またある日の移動中。
久しぶりに暑い午後。日差しがまぶしくて、頭もクラクラします。

前を走っている自転車を追い越そうとしたら、
「暑いね~」と声をかけられました。どうやら自転車を運転してるのはおじいちゃんのようです。
「ほんと、暑いですね~」少しだけ振り返り、親しみを込めてお返事。

そのまま走り去っていくわたしの背中越しに、
・・・あれ?おじいちゃん、まだ話を続けてるっ?

「でも、あんたは健康そうだ!運動してるからだな?」
「おれは顔色見ればわかるよ、健康そのものだな!」

それにしても、よく通る声ですなぁ。
わたしはそっちまで聞こえるように、大きな声で笑い続けました。
おじいちゃん、また今度ゆっくり話しましょう!

2016年7月20日水曜日

ちいさなひまわりの話


ちいさなひまわりの話。

























たんぽぽよりもちいさなひまわり。

冬、ことりさんたちのごはんとして、用意したひまわりの種。

女の子が遊びに来て、その種を植木鉢に植えた。


咲くのかな?
どーだろうね。


大きくなるのかな?
どーだろうね。



春になり、芽がでてきた。

芽が出てきて、よろんだ女の子は、水をたくさん上げた。

でも、その鉢植えには大切な木が一緒に生えていて、春にはあまり水をあげないのがいいらしい。

ぼくは、あまり水をあげないでねと強い口調でいうと、女の子は水を上げなくなってしまった。


ひまわりと女の子、ごめんなさい。


それでも、ひまわりの芽は少しづつだが上に上に伸びていった。

僕はかくれて水をあげていた。

たまに、しおれそうになる時もあったが、水をあげると元気になった。

葉っぱに青虫がついて、ほとんどたべられそうになったとき、青虫さんに引っ越しをお願いして、なんとかなった。




夏。


ちいさなちいさなひまわりが咲いた。


女の子にひまわりが咲いたことを伝えたら、


「ほんとだ!でも、ちいさいね。大きいのがいいね」


ちいさくてもいいじゃないかと僕は思ったが、口にしなかった。





2016年7月19日火曜日

すごいタイミングで

その日は、少し落ち込むことがあり、
事務所に戻って来てからも、なんとなく気分が沈んでいました。


「大丈夫?ちょっとグッタリしてるけど。」
「うん、ちょっと休めば大丈夫だから」
・・・なんていうやり取りをしていたまさにその時!

昔、電気屋さんのおかみをやっていたというキラッキラした天使が事務所にやってきて、
30分くらいバーッとしゃべり続けて、
「よかったらこれ食べてよ!」と袋を差し出して帰っていきました。

袋の中には、
胡瓜の糠漬けと、
泥だらけのミョウガ6個、
小分けのアーモンドフィッシュ(大好物)3ヶ
「マルエツのメンチカツ味」のポテトチップス(カルビー)。


天使がいなくなった事務所には、明るい余韻だけが残っていて、
「すごいタイミングだったね・・・」と、わたしたちは呆気にとられていました。


天使、御年70代前半。
今月末にフラダンスの発表会があるそうなので、見に行こうと思います。

2016年7月11日月曜日

折々のことばより

朝日新聞の朝刊に連載されている「折々のことば」。
何となく、やはり、介護にまつわる言葉に目が行ってしまう。
いくつか。


2015.7.8
「やっぱり年上かのう」  泉重千代
 
かつて世界最年長の男性としてギネス記録に登録された泉重千代さんが「好きな女性のタイプは?」と聞かれ、こう答えたという。

ユーモアで世界は変わる!



2016.5.5
「ねえ、チキンのヘリコプターに乗ったらなあに?」「そんなのに乗ったら、おズボンが油だらけになっちゃうぞ」    菅原和孝


人類学者は、調査でアフリカに同行した自閉症の長男と一日に何十回とこの問答を繰り返した。
そして不思議なこの質問を、彼にすっとさしのべられ、その腕をとらえて離さない息子の「手」と同じものと感じた。語らいの中で人は他者とのつながりを確かめる。歌唱と同じで、意味ではなく身体を通して支えあう。「身体の人類学」から。


例えば、
朝4時に「おなかがすいた」と起こされる。6時になると「ご飯はまだか」。
朝食が済んでの、10時「まだ食べていない。ご飯を食べさせてもらっていない」。



例えば、
「身体が痛い」と。どこが痛いか、わからない。動かそうとすると「痛い、あほ」



「おなかがすいた」は、おはようの挨拶かもしれない。
「痛い、あほ」は、つたわったぬくもりなのかもしれない。



ちがうかもねー。

でも、一つの視点、自分の考えだけだと、固い壁になってしまう。
受けた言葉を、跳ね返してしまうだけ。



ユーモアを持とう。
世界は、もっとやわらかく、豊かである。





2016年7月8日金曜日

半世紀ちがい

Yさんが、お誕生日を迎えた。
御年86歳。

お風呂で髪の毛を洗いながら、
「農地解放で生活がガラリと変わって・・・」と話し始める。
歴史の授業で習ったことが、生活の一部として語られるので、
その生々しさに仰天してしまう。

ことり「わー、何か今すごい話を聞いちゃった気がしますよ!」

Yさん「そうだろ?こんな話、聞いたことないだろ?」

ことり「えぇ、そりゃもう。あーYさん、その時まだ小っちゃかったんだ・・・」

Yさん「そりゃそうだよ、齋藤さん。あんたとわたしじゃ、半世紀ちがうんだからさ!」


わたしたちの年の差は50歳、というのは分かっていたけど、
世紀単位で考えたことはなかったなぁ。
そうか、半分か。